浅草のシンボル「金龍山 浅草寺」朱塗りの楼門、朱色の五重塔

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浅草のシンボル「金龍山 浅草寺」朱塗りの楼門、朱色の五重塔 金龍山 浅草寺

東京の数ある寺院の中でも、おそらく一番有名で、写真を見ることも多い浅草寺は、東京最古の仏教寺院です。何世紀にも渡って参詣者が訪れてきた境内、五重塔、線香の香る参道などからは、昔と変わらぬ趣が感じられます。

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浅草寺について

浅草寺について

歴史

遠い昔、宮戸川(現在の隅田川)で、2人の漁師の網に観音像がかかり、2人は何度も像を川に返そうとしましたが、必ず戻って来てしまいました。

そこで2人は像を持ち帰り、土地の長に見てもらうと、観音像だと分かり、像が祀られることになったという謂れがあります。

浅草寺の歴史の始まりは西暦628年 ですが、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲は浅草の町並みを一変させました。もとよりその中心であった浅草寺も大半の伽藍を焼失し、その復興は地元のみならず全国のご信徒にとって悲願でした。

本堂をはじめとした諸堂の再建はご信徒の方々に喜びと勇気を与え、ご信徒の心を一層結びつけることにもなったのです。

これを期に寺舞が創始され、地元有志の方々による奉演は、ご縁日に訪れる参拝諸人を楽しませている。

ご本尊

聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音(あさくさかんのん)として知られています。山号は金龍山。

境内

境内では季節ごとの行事が年間を通して開催されています。中でも人気なのは、7月に開催されるほおずき市や12月に開かれる羽子板市です。また、浅草寺へ続く参道は「仲見世通り」として有名で、通り沿いには約90店ものお店が立ち並び、工芸品やお土産、お菓子などが売られています。

雷門(風雷神門)

風神・雷神が守護する浅草寺の総門

表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っています。

浅草寺の年中行事

福聚の舞〜七福神の舞・宝の舞〜

2月節分(七福神の舞)・5月5日(宝の舞)

昭和39年(1964)の宝蔵門落慶を記念して創始された舞が「福聚の舞」。福聚とは『観音経』にある「福聚海無量(観音さまが備えている海のごとき福徳の聚り)」から名付けられたもので、節分会で奉演される「七福神の舞」と5月5日の端午の節句に奉演される「宝の舞」とがあります。

「七福神の舞」は、江戸末期から明治初年まで浅草猿若三座の1つ「市村座」で興行に先立って演じられた狂言を再興したもので、節分会に観音さまの功徳を讃えるために奉演されます。

「宝の舞」は端午の節句に奉演される寺舞で、観音さまの福徳に感謝するとともに子供の成長を願う行事。ご本尊の示現に関わった檜前浜成・竹成兄弟が漁師であったことにちなみ、漁師の衣装をまとった宝童子が宝船を曳いて練り歩きます。

節分会で奉演される七福神の舞

節分会で奉演される七福神の舞

仲見世を練り歩く宝童子。

仲見世を練り歩く宝童子。

白鷺の舞

4月第2日曜日、5月三社祭、11月3日

昭和43年(1968)に明治100年記念(東京100年)行事として始められ、『浅草寺縁起』(寛文縁起)に描かれる「白鷺の舞」を再興した寺舞。鷺舞の神事は京都八坂神社が起源とされ、浅草寺の舞はその鷺舞を参考に、寺舞保存会によって演じられています。白鷺の装束をまとった踊子が舞い、武人、棒ふり、餌まき、楽人、守護童子などが、「白鷺の唱」を演奏しながら練り歩きます。

 白鷺の舞 4月第2日曜日、5月三社祭、11月3日 昭和43年(1968)に明治100年記念(東京100年)行事として始められ、『浅草寺縁起』(寛文縁起)に描かれる「白鷺の舞」を再興した寺舞。鷺舞の神事は京都八坂神社が起源とされ、浅草寺の舞はその鷺舞を参考に、寺舞保存会によって演じられている。白鷺の装束をまとった踊子が舞い、武人、棒ふり、餌まき、楽人、守護童子などが、「白鷺の唱」を演奏しながら練り歩く。


白鷺の舞
4月第2日曜日、5月三社祭、11月3日
昭和43年(1968)に明治100年記念(東京100年)行事として始められ、『浅草寺縁起』(寛文縁起)に描かれる「白鷺の舞」を再興した寺舞。鷺舞の神事は京都八坂神社が起源とされ、浅草寺の舞はその鷺舞を参考に、寺舞保存会によって演じられている。白鷺の装束をまとった踊子が舞い、武人、棒ふり、餌まき、楽人、守護童子などが、「白鷺の唱」を演奏しながら練り歩く。

金龍の舞

3月18日、10月18日

昭和33年(1958)、本堂再建を記念して創られた寺舞でその名は浅草寺の山号「金龍山」に由来する。観音さまを象徴する「蓮華珠」を先頭に、これを守護する「金龍」が仲見世や境内を練り歩きます。金龍浅草組合花組のお囃子の中、勇壮華麗な舞が繰り広げられ、参拝者から歓声や拍手が起こります。

観音さまのご縁日18日の8にちなみ、金龍は長さ約18m、重さ約88kgで、8名によって生けるがごとくに操られる。

観音さまのご縁日18日の8にちなみ、金龍は長さ約18m、重さ約88kgで、8名によって生けるがごとくに操られる。

都内最古の寺

浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音(あさくさかんのん)として知られている。山号は金龍山。

元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山となった。都内では、坂東三十三箇所観音霊場唯一の札所(13番)、また江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に収まっている

雷門

表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、昭和35年(1960年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時(神輿が通れないので)と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。

風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。

仲見世通り

雷門から宝蔵門に至る長さ約250mの表参道の両側には土産物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世通り」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。

浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に床店(小屋掛けの店)を出す許可を与えた。貞享2年(1685)頃のことで、これが仲見世の発祥といわれている。

宝蔵門

雷門をくぐり、仲見世通りの商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。江戸時代には一年に数度2階部分に昇ることが可能であった。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財「元版一切経」の収蔵庫となっている。

2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷と言われている。門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500kgを使用している。

わらじは10年おきに新品が奉納されているが、稲藁は長い方が加工しやすいものの、近年の稲作では全国的に稲藁の利用の激減や、風雨で倒れにくく収穫しやすいことから、丈の低い品種への品種改良が進んでいる。同市ではこのために丈の高い古い品種を特別に栽培している。

耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン製の瓦を全国で初めて採用した。(カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)表面のアルミナブラスト加工をランダムに配置することで、土瓦特有の「まだら感」を再現している。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。これ以降、境内の建物の瓦は順次チタン製に置き換えられている。

本堂

本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。再建にあたっては、建設資金を捻出するために瓢箪池の敷地(2400坪)が江東楽天地などに売り払われた[8]。

外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊の聖観音像(絶対秘仏)を安置する八棟(やつむね)造りの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は上段の間と下段の間に分かれ、上段の間には秘仏本尊を安置する厨子を納め、下段の間には前立(まえだち)本尊の観音像(伝・円仁作)安置する。下段の間にはこのほか徳川家康、徳川家光、公遵法親王(中御門天皇第二皇子、天台座主)がそれぞれ奉納した観音像が安置されている。

宮殿の扉の前には「御戸帳」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられている。宮殿の手前左右には梵天・帝釈天像が立つ。宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には本尊の脇侍として不動明王像と愛染明王像を安置する。

毎年12月12・13日に煤払(すすはらい)と開扉法要が行われる。本尊は絶対秘仏で公開されないが、「お前立」の観音像は12月13日午後2時からの開扉法要の際に一般の信徒も拝観することができる。

2009年2月から2010年12月にかけて、「平成本堂大営繕」が行われた。屋根の葺き替えは1958年(昭和33年)の再建以来50年ぶり。宝蔵門の改修工事でも用いたチタン瓦 (カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)を採用。使用色も2色から3色に増やし、より粘土瓦に近い風合いを醸し出している。

2020年6月13日午前、新調された扁額の奉納法要が行なわれた。「施無畏」と書かれた扁額は1727年に奉納されたが、1945年の東京大空襲で焼失し、写真による複製が飾られていた。新調された扁額は大ケヤキの一枚板で、天台宗僧侶で書家の豊道春海の筆による「施無畏」の文字が、井波彫刻の彫刻師、南部白雲によって彫られた。幅約4メートル、縦約1.3メートル、厚さ約15センチメートル、重さ約700キログラム。文字の掘り込みは5センチメートル以上となっている、1958年の本堂再建時に新調予定だったが、大きな一枚板を調達できず長らく実現できずにいた。

五重塔

天慶5年(942年)平公雅が塔を建立したと伝わる。この塔は三重塔であったといわれる。焼失を繰り返したのち慶安元年(1648年)に五重塔として建立され、本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲では焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から請来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、平成21年(2009年)、新たに「旧五重塔跡」と記された石碑が設置された。周辺には木が植えられ、憩いの場となっている。江戸四塔、江戸六塔の一つに数えられる。

アルミ製の瓦を使用していたが、2017年6月には本堂で使われた3色のチタン瓦 (カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)を導入した。

浅草寺の概要

住所 東京都台東区浅草2-3-1
アクセス 【電車】
東京メトロ銀座線・東武伊勢崎線浅草駅から徒歩約5分、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線浅草駅から徒歩約5分、または都営地下鉄浅草線から徒歩約5分
【車】
首都高速駒形ICから約5分または向島ICから約15分
予約 不要
営業時間 10~3月 6:30~17:00
4~9月 6:00~17:00 ※年末年始の時間は要問合せ
定休日 なし
駐車場 なし。
電話番号 03-3842-0181 浅草寺
公式サイト https://www.senso-ji.jp/
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出典:https://www.senso-ji.jp/