かつて浅草にあった凌雲閣(りょううんかく)。
明治時代に大阪と東京に建てられた眺望用の高層建築物です。
東京の浅草凌雲閣は、浅草公園に建てられた12階建ての展望塔です。
1890年(明治23年)竣工の、当時の日本で最も高い建築物でしたが、残念ながら1923年(大正12年)の関東大震災で半壊したため解体されました。
凌雲閣があった場所
東京の凌雲閣は、1890年竣工の高さ52m・12階建てでした。
当時は浅草公園の区外地である千束町(現在の千束と異なる)に建てられており、「浅草公園地第六区内建物高さ制限」に抵触せず高い建築物が可能でした。
東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されましたが、その設計にあたったのは当時東京電燈株式会社の技師で東芝の前身の一つとなる白熱舎(のちの東京電気)を創業した藤岡市助と報道されました。
完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場しています。
全壊した凌雲閣
徳永柳州
「第一震十二階の崩壊」
震災前後の凌雲閣
(絵はがき)
1892年に来日したアメリカ人貿易商ロバート・ガーディナーは「レンガ造りのこの建物は高さ320フィートで最上階の3階まで電動エレベーターが備わっているが、手入れが行き届いておらず、階段を上った」としていますが、各階に飾られた絵や塔からの眺めの素晴らしさから東京観光でまず行くべき場所のひとつであると薦めています。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができたようです。
1890年の開業時には「日本のエッフェル塔だ」(パリのエッフェル塔は前年1889年開業)と多数の見物客で賑わいましたが、明治末期には客足が減り、経営難に陥ってしまいました。1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだと伝えられています。また隣地には、1912年2月「浅草国技館」が開館しました。
浅草十二階の下の一帯は銘酒屋街となっており、実際としては私娼窟と化していました。それで浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味したようです。
経営難から復旧が困難であったため、再建は断念され、同年9月23日に陸軍赤羽工兵隊により爆破解体され姿を消した。 2021年の朝日新聞の記事によると、爆破解体にはたくさんの見物人が集まっていたとされており、当時の新聞にも「明治二十四年来の名物は永遠に地上から去った」と報じていたとされています。
凌雲閣:日本初の電動式エレベーター
『凌雲閣』の名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。日本初の電動式エレベーターを備え、「浅草十二階」、あるいは単に「十二階」という名でも知られています。
凌雲閣は東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されました。
完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもありました。
展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができたそうです。1890年の開業時には「日本のエッフェル塔だ」(パリのエッフェル塔は前年1889年開業)と多数の見物客で賑わったのですが、明治末期には客足が減り、経営難に陥りました。
東京百美人
ところが目玉のエレベーターが故障、 夏の繁忙期前に大ピンチとなってしまいました。
日本一高い建築物に加えて、エレベーターを内蔵した凌雲閣ではありましたが、なんとエレベーターが故障しました。度々不具合はあったそうで、原因の一つは、施工前の設計段階でエレベーターを内臓することが想定されておらず、無理に後付けしたことがあったそうです。オープンから6ヵ月後、当局の指導により運転停止命令が出ました。
夏の繁忙期を前に目玉のエレベーターが運転停止。運営会社は悩みました。エレベーターがないということは12階の展望室まで観光客は歩いて登ることになります。長い上がり下がりを飽きさせない方法はないだろうか。悩んだ結果、画期的な対策が行われたのです。
そこで対策として、美人コンテストをやって客を集めることになったのです。
こうして日本初の美人コンテストが開催されることになりました。コンテスト名は「東京百美人」、エントリーされた女性達は東京中の花街から選ばれた102名の芸者達。凌雲閣の階段を登りながら壁面の写真を見て、最後に好きな女性に投票ができるというシステムでした。
数多の芸妓によって彩られた明治のミスコンテストです。
明治24年(1891)7月、開業半年を迎えた浅草公園の高塔凌雲閣で、「百美人」と呼ばれる催しが行われました。当時の有名芸妓100人の写真を展示し、投票によって美人を選抜した、日本初のミスコンテストといえる催し。
大きな呼び物になるはずの日本発のエレベーターは不具合が続き、運転停止に追い込まれてしまい、それに変わる新たな呼び物としてのイベントがこのミスコンでした。
長い階段の上り下りを飽きさせないもの、それがあまたの美人たちというわけで、こうして急遽企画されたのがこの百美人だったのです。
閣内に100人の写真を掲げ、登覧客の投票によってさらなる美人を選抜させるというものでした。
女性たちはすべて、新橋や日本橋、芳町など、府下に名だたる花柳の巷から選抜された「芸妓」、いわばプロの美人たちでした。
これら100人に及ぶ芸妓たちの撮影を行ったのは、アメリカで最新の撮影術を習得し、当時新世代の写真師として頭角を顕していた小川一眞です。
玉川屋の17歳、玉菊が一等となり、そのほか上位4人も新橋芸妓が独占するというかたちで幕を閉じました。
百美人はその後、明治25年(1892)、明治27年(1894)と第3回まで開催されています。この第一回百美人では、濡れ髪のまま写場へ訪れたことで話題をさらい、のちに広告モデルにも起用された「洗い髪のお妻」といった有名人も輩出しています。
結果は大成功でした!
開催期間中の5日間で約50000名お客様が来場されたそうです。
エレベーター故障時の平日の平均来場者が300名だったことを考えると、ものすごい反響があったことが分かります。
ただ実際の話、この来場者数は観光客だけではなく、花街の旦那衆が贔屓の芸者を優勝させるため、多くの人間に何度も何度も通わせたことが裏にあったそうです。この料金(入場料)を払って自分の贔屓する女性に投票できる仕組み、某アイドルグループの総選挙に似ていますね(入場料ではなくCDを買って投票できる仕組み)。今も昔も人のすることはあまり変わらないのかもしれません。
東京百美人コンテストでは、惜しくも入賞はしませんでしたが、コンテストの話題をさらった芸者がいました。 芸名は「小つま」。子つまはコンテスト用の写真撮影当日、身支度のために自宅で髪結いが来るのを待っていましたが、 約束の時間を過ぎても髪結いは現れませんでした。しびれを切らした小つまは、長い髪を垂らしたまま、 いわゆる「洗い髪の姿」で会場に向かったのです。当時の女性が髪を下ろして人前に出るということは恥ずかしいことだったのです。会場に到着した小つまは、身支度をし、結果的には日本髪姿で写真撮影を行いましたが、 この時のエピソードから「洗い髪のお妻」という名で呼ばれるようになります。 後日談として、この洗い髪姿のが好評となり、今でいうグラビアアイドルのような待遇を小つまは受けることになります。 当時の洗髪料(今でいうシャンプー)の製造会社のイメージガールになったり、お座敷に「洗い髪」で来るように指名をされたりと、 大評判となったそうです。
右のお写真がコンテスト後に撮られた、
洗い髪のお妻さん。
本当にグラビア写真みたいですね。
あまりに評判が良かったため、
コンテストの優勝者は「小つま」さんだった
という噂話まであったそうです。
凌雲閣の最後
1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が火災とともに崩壊しました。地震発生当時頂上展望台付近には12-3名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死しました。
経営難から復旧が困難であったため、再建は断念され、同年9月23日に陸軍赤羽工兵隊により爆破解体され姿を消しました。
2018年2月、浅草商業ビルの工事現場(浅草2丁目14番)において、基礎部分の煉瓦と八角形の土台のコンクリートの一部と見られるものが掘り起こされています。その後このビルの外壁には完成後の2018年8月、凌雲閣を描いた浮世絵を拡大複製した壁画(高さ8メートル)が貼られました。
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出典:
凌雲閣|Wikipedia
MEIJI TAISHO 1868-1926: Showcase – 大日本凌雲閣之図
凌雲閣 東京百美人(浅草) | 東京花柳界情報舎